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京都なぜ?なに?Q&A FAQ

京都なぜなにQ&A
京都は伝統と歴史の街。
だから京都には小さな不思議と謎がいっぱいです。

そんなちょっとした「なぜ?」「なに?」にお答えます。

 


御池通りの「御池」ってどこにあるのですか?

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堀川御池の神泉苑のお庭の池のことです。

御池通は平安京があった頃は「三条坊門小路」と呼ばれており御池通という名称が出てくるのは江戸時代からのことです。すぐそばには二条城のお堀があるとはいえ、堀を池と呼ぶとは考えにくいものがあります。

JR二条駅からしばらく東に戻ったところの北側、ちょうど二条城の南に当たる部分に、神泉苑という名跡があります。この中にある池こそが、御池通りの「池」なのです。

平安京を新しい都とする際、当時は市内中心部を斜めに横切っていたとされる賀茂川の治水工事が行われ、都の中心を縦断する堀川の推量を安定させました。神泉苑は、その堀川の水を引き込んで造苑された神泉苑は御所のすぐ南に位置し、桓武天皇の治世の頃から禁苑・禁池(天皇や高官の遊宴の場所)として用いられました。元は南北は二条通り~三条通り、東西は大宮通り~壬生通りまであったといいますから、現在よりもかなり広大な庭園であるといえます。

当時の姿とは全く異なってはいますが、この神泉苑は、平安京が貴族の街であった頃の名残といえる数少ない名跡であるといえます。この近辺では二条城ばかりが目につきますが、少し足を伸ばしてみれば意外な発見があるものです。



一休さんのいた安国寺って本当にあるのですか?

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安国寺にいたのは本当です。

年代によってはアニメ「一休さん」でおなじみの一休禅師ですが、その中で彼が修行しているのが、安国寺というお寺です。

一休は、1394年の元旦に、宮仕えしていた藤原氏一族の娘の子として生まれました。その後6歳で仏門に入り、周建と名づけられます。このように名家の子息が仏門に入ることは当時でも少なくなく、彼の兄弟弟子にも貴族の子息たちはたくさんいました。彼らは夜な夜な自分の家柄を自慢しあいましたが、一休自身は幼い頃より向学心に燃え、仏学はもとより詩歌にも才能を顕していたといわれます。
この禅寺こそがアニメの舞台ともなった安国寺で、現在の四条大宮のあたりにあったとされます。アニメの一休さんでは人里から少し離れた山の上、雪の降るような場所にあったことになっていますが、母親と離れて暮らす少年を表現するための演出でしょう。

彼はその後1410年、17歳になるまで安国寺で過ごし、その後西金寺という寺の住職の弟子となります。アニメに登場する時の征夷大将軍足利義満は1408年に没していますから、アニメでの出来事はすべて一休が15歳までのことだということになります。



一休さんは皇族というのは本当ですか?

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後小松天皇の落胤(私生児)といわれています。

一休は1394年の元旦に、嵯峨野の民家で生まれたと言われています。彼の母親は藤原氏一族の娘であり、彼女自身も宮仕えをしていました。後小松天皇の子であるという明確な証拠はないのですが、父親が全く問題ない相手であれば、彼女も嵯峨野の民家に逃げるようにして彼を生むことはなかったでしょう。
当時の室町時代は南北朝統一がなされた直後の、まだ武力闘争・政治闘争ともに活発な時代。彼女は親族が南朝とつながっているとして陥れられたために御所を出たと言われています。

後小松天皇は一休が18歳の時に退位し、その後に第一皇子実仁親王がわずか11歳で即位、称光天皇となりました。実際は後小松上皇の院政です。しかし称光天皇は26歳の若さで夭折してしまいます。その後に即位した後花園天皇は養子として迎えられています。そのいずれの際にも一休を天皇に祭り上げようという声は起こらなかったことから、当時一休は落胤として認識されていなかったものと思われます。

一休は高僧として様々な寺から招かれていますが、晩年に大徳寺住持に任ぜられても住むことはありませんでした。彼の名を冠する「一休寺」は、彼が住んでいた酬恩庵を寺としたものです。そこにある彼の墓は門扉に菊花の紋が彫られ、彼が皇族として扱われていることを示しています(宮内庁の管轄であるため、門より奥に入ることは出来ません)。



一休さんの「このはしわたるべからず」で有名な橋って本当にあるのですか?

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あったのかもしれませんが、さてどこでしょうねぇ…

「このはしわたるべからず」ってわかりますよね?アニメでいえば、桔梗屋さんの前の橋のたもとに「このはしわたるべからず」って書いてあるのに橋を渡った一休さんが、その理由を聞かれて、「はし(端)は渡っていません。真ん中を渡りました」と答えたというあれです。

一休とんち話の元をたどるならば、江戸時代の読み本「一休はなし」ということになるのではなると思います。読み本というだけあって、仏教説話的な要素も持ってはいるものの基本的にはユーモラスなとんち話です。内容はすべてが創作といえます。
この「一休はなし」の中に、養叟和尚に連れられてある家に招待される一休の話があります。その家の前に橋があり、「このはしわたるべからず」とあったというわけです。この話こそが「このはしわたるべからず」ですが、長々と語られるわけではなく、事実だけが淡々と語られた短い話です。
ですが、安国寺にて一休の師となる僧の中に養叟という人物はいません。近い名前の人物ならば、華叟という堅田に庵を結んでいた僧侶がいます。一休が20代になってから師事した人物で、一休という名を授けた人物です。読み本ですので、この人物から名前を取ったかどうかすら不明です。

このとんち話、その後も幾度か再編されたり、幼年向けに話を変えられたりします。その中のひとつに「このはしわたるべからず」も含まれており、子供向けのエピソードとしてはかなりポピュラーなものとしてアニメ化されたのでしょう。



一休さんはそんなに頭が良かったのでしょうか?

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大変頭がよかったのは間違いないようですが…

一休は6歳の時に出家し、26歳の時に悟りを開いたと言って寺を出るまでは非常に厳しい修行を行っていました。わずか13歳にして詩を読んだと言われ、その才能は都でも有名であったといわれています。

寺を出てからの一休は、80歳を超えるまで権力とは一線を引いた生活を営んでいました。天皇家の血縁ということは当時は知られていなかったといわれていますが、僧侶としても当代一流であったといわれる一休は、様々な寺に請われながらもそれを拒み、独自の活動を続けました。若い頃は諸国を旅し、81歳に大徳寺の住持となっても、依然酬恩庵(しゅうおんあん)と呼ばれる庵を中心に活動していたとされます。この庵こそが現在の一休寺の元となっています。

詩歌や絵に優れていたと言われ、当人の著作となるものには「狂雲集」「自戒集」などの詩集が存在します。狂雲子というのは本人の雅号ですが、ここからもわかるとおり、かなり自由奔放で毒の強い人物です。仏教の戒律を破る他、様々な奇行の数々。「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」という歌といい、かなり独特な思考の持ち主だったといえます。

頭がいいことは事実なのでしょうが、かなり付き合いにくい人物だったようですね。



神泉苑はなぜ小さくなったのですか?

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ごらんの通り、二条城の造営によって小さくなりました。

神泉苑は禁苑・禁池ですから、民衆の立ち入れるところではありませんでした。とはいえ干ばつの時には池の水を提供することはあったようです。また、824年に弘法大師が祈祷を行って北印度から竜王を呼び寄せてから、神泉苑は東寺に預けられたといわれています。
しかし、鎌倉時代に入り武士の治世になると、天皇や貴族の力が弱まったこともあり、都はどんどん荒廃していきます。神泉苑も例外ではないようで、室町時代になると、干ばつ時に祈祷を行う際の庭園を掃除する役職が設けられていたといいますから、普段はかなり汚かったのでしょう。

そんなこともあってか、1602年徳川幕府により二条城が本格築城されると、神泉苑の北側約1/3が削り取られ、池の水も堀に回されてしまいます。二条城の東南に、「神泉苑 東端線跡」の石碑があります。

土地の転用は続き、町屋の建築のために地所が削り取られたこともありました。周辺の民家の下には、当時の池が眠っているところもあるのです。その後今の広さになったところで、ある僧侶の嘆願が聞き入れられ、正式に東寺所属の寺院となりました。

竜王は今も池に住んでいるとされていますが、昔と比べるとかなり住みにくくなっているんでしょうねえ。



御池通はなぜ広いところと狭いところがあるのですか?

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広くなったのは戦後のことです。

京都市街を南北に見たとき、そのほぼ中央を東西に走るのが御池通です。戦後復興の折りに道幅が広げられ、京都の中でも広い方の道となり、祇園祭の山鉾巡行路にもなりました。東の端、鴨川のほど近くに京都市役所もあり、繁華街とは違った意味で、京都の中心部という雰囲気があります。
この御池通、川端通りを起点として東の方から進んでいくと堀川通りとの交差点で細くなり、JR二条駅、地名で言うと「西の京」と呼ばれる辺りでいったん途切れてしまいます。なぜここで途切れてしまうのか、その理由はまたの機会に紹介するとしまして、「広い御池通」は川端~堀川間だけといえます。

これは、第二次世界大戦の際に旧御池通周辺の民家が強制疎開されて防火地域となり、戦後、その空き地を都市計画道路として整備したためです。

平安京の頃の「三条坊門小路」は、幅約四丈の道であったとされています(一丈=約3m)。一条大路や九条大路などの大きな通りの幅は10~12丈、朱雀大路に至っては28丈ありましたので、広い方の通りではなかったといえます。堀川~二条駅間の道幅くらいが、当時の道幅だったのでしょうね。



京都で一番古い建物は?

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醍醐寺の五重塔が一番古いと言われています。

平安時代後期以降、京都はたびたび戦場となり、寺社に陣を構えるどころか、寺社そのものを標的として焼き討ちや破壊に及んだ例も少なくはありません。また、当時の最高権力者が所有した建造物は次世代の権力者によって取り潰される場合も少なくなく、そのため京都において室町時代以前そのままの建造物を探すことは、意外に難しいといえます。

そんな中で、醍醐寺の五重塔は、当時の姿そのままに今に存在する、数少ない建物だといえるでしょう。

現在は京都地下鉄の醍醐駅が最寄りとなります。駅を出て東に歩いていくと、かの豊臣秀吉が花見の宴を営んだことでも有名な醍醐寺が見えてきます。
現在も多くの建物があり、その中の多くが国宝となっていますが、応仁の乱の際に大内氏の手によって五重塔を除くほぼ全ての建造物が焼失してしまい、今残っている建物は、ほとんどが再建された建物です。

五重塔は、その中で唯一全焼を免れた建築物で、醍醐寺の中で唯一の創建当時からの建物です。開山からは約70年たってから建立されたということで他の建物が残っていればむしろ新しい建物といわれていたはずなのですが、今となっては最も古い建物とされるのがある意味残念です。



醍醐寺は誰が再建したのですか。

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主な再建者は、豊臣秀吉とその子秀頼です。

醍醐寺は真言宗の寺院で、弘法大師の孫弟子に当たる人物が上醍醐を開山したところから始まります。真言宗は天皇や公家の信仰が厚く、醍醐寺も醍醐天皇をはじめ天皇家や公家と結びつきを深め、発展を遂げていきます。
しかし、応仁の乱が起こった1467年より3年後、醍醐寺は大内氏の手によってそのほとんどが焼失してしまいます。その後百年以上にわたり、下醍醐は一部が焼失を免れた五重塔のみが残っている状態でした。

安土桃山時代に入り、義演という公家出身の座主が醍醐寺の復興を開始します。彼は足利義昭の猶子であったこともあって豊臣秀吉と接点があり、秀吉の帰依を受けて醍醐寺の再建を本格化させました。
桃山時代も終わり近い1597年、豊臣秀吉は五重塔の修繕費を寄進しました。翌年には桜七百本を植樹した上で大花見宴を執り行い、その後も積極的に醍醐寺再建に取り組みました。金堂や三宝院は秀吉の死後に再建されていますが、再建自体は秀吉が指示したものです。

今の京都は、豊臣秀吉の手によって再建されたものが多いですねえ。秀吉様々です。



上醍醐と下醍醐とは何か違うのですか?

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上醍醐こそが本当の醍醐寺です。

醍醐寺は、現在でも京都の中でもかなり広大な境内を持つ寺院の一つです。9世紀後半に、弘法大師の孫弟子である一人の僧が醍醐山頂にて示現により霊泉を得、そこに小堂を建造したことから始まります。

その後、醍醐・朱雀・村上という三帝の信仰を集め、釈迦堂を含む数々のお堂や僧房が建造されます。その後も天皇家や公家と結びつきを深め、真言宗の一派の中心的な寺院としてのみならず、貴族とも縁のある寺院として隆盛を極めることとなります。下醍醐は、醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺として庇護したために発達した、上醍醐の伽藍といえます。

上醍醐は、下醍醐から山道を登ること約40分、醍醐寺の山頂付近にあります。観音霊場を巡る「西国三十三箇所」の1つ准胝観音はこの上醍醐に安置されています。大半の建物は昭和初期の山火事によって焼失しており、創建当時の建物がないのが残念です。

道もさほどよくなく、普段山道など歩かない都会人にとってはかなり疲れる道のりですが、低い京都の山を歩くのに息を切らしているようでは、かなり都会に蝕まれていると言えるでしょう。



なぜ四条河原町近辺に繁華街ができたのですか?

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元々鴨川の河原は、見せ物小屋や芝居小屋など庶民の遊興のための場所だったのです。

1467年に起こった応仁の乱によって、京都の町はそのほとんどが焼け野原と化してしまいます。
そんな京都を復興したのは、そこに住む住人でした。中でも「町衆」と呼ばれる人たちは、応仁の乱以降中断されていた祇園祭を自分たちの手によって復活させます。1533年には、室町幕府より「神事執り行うべからず」という政令が定められたにもかかわらず、それをはねのけて実行したとあります。彼らには、自分たちこそが京都を復興させているのだという自負があったのでしょう。

住人の手によって復興されつつあった京都に、本格的に活気を取り戻したのは、豊臣秀吉です。

すでに関白であった豊臣秀吉は、1590年に京都の本格的改造に乗り出します。都の周辺にお土居を築き、以前は正方形に近かった町の区画を縦長の長方形にすることで、土地を有効に活用できるようにしました。
また、本能寺をはじめとする洛中の寺社を当時市内中心部の東端である「東・京極通り」に移し、周辺にお参りの人たち向けの宿や遊郭等の遊興施設を造りました。これが現在の寺町通りです。ここに収まりきらない人々はさらに周囲へと広がり、鴨川の河原は庶民のための遊興の場となりました。

寺町通りは江戸時代半ばに大火を出し、なんとか復興したものの、明治時代になり寺領が召し上げられ、規模の縮小を余儀なくされます。かたや庶民によって支え続けられた河原町は、その後町並みは変われども変わらぬ人の賑わいが、京都一の繁華街であることを証明しています。



よく「清水の舞台から飛び降りる」といいますが、本当に飛び降りた人っているんでしょうか?

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ここ140年ぐらいはわかりませんが、江戸時代には年に1人ぐらいはおられました。

「清水の舞台から飛び降りる」とは、行動を起こすときの決意を表す言葉として用いられますが、この言葉、歴史を紐解けば、例えではなく事実であったことがわかります。

清水寺の学芸員の方が、清水寺に残る文書「成就院日記」を調査されたところによれば、江戸時代の庶民信仰の一つに「清水の舞台から命を懸けて飛び降りれば、願い事がかなう」というものがあったそうです。江戸時代には観音信仰が盛んであったとも言われますから、「死んでも救われる」という信仰のもとの行動であったと思われます。
文書には飛び降りに関する記述もあり、その記述を抜き出してまとめると、148年で未遂も含め234件の飛び降りがあったそうです(文書自体は1694~1864年までのものですが、抜けがあるそうです)。
これを1年あたりに直すと、約1.6件。抜けの部分も同じように起こっているとすれば、江戸時代で424件の飛び降りがあったことになります。飛び降りの7割は男性。下は12才から上は80代と、なかなか幅広い年齢層です。10代・20代で全体の7割を占めると言いますから、色恋沙汰に絡んだ問題が多いのかもしれません。
飛び降りてお亡くなりになった方は全体の約15%。やはり若い人は生き残りやすいようです。中にははるばる遠方から飛び降りに来た方もおられたとか。

明治時代に至り、1872(明治5)年に京都府より「飛び降り禁止令」が発布され、事態は沈静化の方向に向かいました。それ以降はほとんどおられないようです。

事実とはいえ、いささかぶっそうなお話でした。



なぜ「師団」街道なのですか?また、この街道はどこからどこまでですか?

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北は川端塩小路の交差点から、南は伏見の京町通に続く国道24号線までの、全長約4.8kmの道を指します。

日露戦争開戦の翌年に当たる明治38(1905)年、日本帝国陸軍は兵力を強化し、師団数を12から17に増強することを決定します。明治40年に第16師団の京都設置が決定し、翌年には深草の地に移駐が完了しました。
師団街道は、京都市街地と師団指令本部を結ぶ道路として敷設された道路です。当時はこの区間は田地であったようで、その作業の多くは、近隣の山間地から採取した土を盛る作業であったといわれています。
師団指令本部近辺と京都市内中心部を結ぶ道の敷設は師団設置以前より計画されており、当初は三条烏丸から続く道であったものが、何らかの理由により現在の長さまで縮小された模様です。

師団指令本部は、現在では聖母(せいぼ)女学院藤森キャンパスの本館として使用されています。煉瓦の綺麗な威風堂々とした洋風の建物を、同校の校門からも見ることができます。



師団司令本部近辺には司令本部以外にも軍隊があったのですか?

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師団司令本部近辺にはかなりの軍組織がありました。

師団司令本部と近辺には、東西に走る道として第一軍道・第二軍道・第三軍道が存在しています。これは、師団指令本部と周囲の施設を結ぶ道であったものです。この軍道の敷設にあたっては、全て先に存在していた琵琶湖疏水と京阪電車をまたぐ橋の建設を余儀なくされました。

第一軍道は、京都兵器支厰および深草練兵場(いずれも現在は龍谷大学深草キャンパス)へと続く道です。
第二軍道は、師団指令本部と師団街道を直結する道です。この途中の橋は「師団橋」と呼ばれ、橋には師団自らが工事を行った印として「☆」マークがが刻まれています。
第三軍道方向には、どのような施設があったのか、正直よくわかりません。大岩街道に通じていることから、おそらくは周辺への移動をスムーズにするための道であったと思われます。



芥川龍之介の小説で有名な羅生門(らしょうもん)ってどこにあったのですか?

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「羅成門(らじょうもん)跡」というモニュメントがあります。バス停もありますね。

故黒澤明監督が映画化したことでも有名な「羅生門」ですが、この原典は、平安時代の説話集である「今昔物語集」の中にある「羅城門登上層見死人盗人語」(29巻第18話)になり、正式には「羅城門(らじょうもん)」といいます。

羅城門は、平安京の中央部を南北に走る朱雀大路の南端部に建てられた門です。現在の度量で言えば、幅32m、高さ12mといいますから、大層立派な門であったことは間違いありません。
朱雀大路は現在の千本通にあたります。最南端は九条大路(現在の九条通)ですから、千本九条あたりにあったことになります。また、羅城門を守護する目的で東寺・西寺が建造されています。

「羅城」とは中国の言葉で「城壁」を意味し、この門があった地域の地名でもありました。本来の読み方という意味では「らせい」「らいせい」と読むらしいので、「らせいもん」「らいせいもん」が最も正しい呼び方ということになります。

中国の故事にちなみ、楼上には毘沙門天像が安置され、天敵退散の願いを込められていたものと思われます。現在東寺に安置されている「兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてんぞう)」がそれであるといわれています。



羅城門はどうしてなくなったのでしょうか?

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さすがの大建造物も、天災には勝てませんでした。

羅城門は平安建都と同時期に建造されましたが、その大きさが災いし、816年に大風で倒壊してしまいます。何とか再建されたものの、980年の暴風雨で再度倒壊し、それ以後は、再建されることもなく荒れ放題となり、門として機能したのはあまり長い期間ではないようです。

荒廃後の楼上は死体の捨て場になっていたことは間違いなく、さらには鬼が住んでいるともいわれました。酒呑童子を倒した源頼光の家臣である渡辺綱が肝試しに行き、茨城童子という鬼の右腕を切り取った話や、最近では、小説家夢枕獏氏の「陰陽師」に、今昔物語の「玄象琵琶為鬼被取語(げんじょうというびわ、おにのためにとらるること)」(24巻第24話)を基にした話があったりします。渡辺綱の生没年から、今昔物語のエピソードは、2回目のの倒壊後の話であると考えられます。
、藤原道長が法成寺(ほうじょうじ)建立の際、礎石に羅城門から石を転用したとの記録もあり、平安時代の終焉を待たずして羅城門はその姿を消していたものと思われます。

南方からの交通の要所ということもあり、倒壊以後も、羅城門近辺はたびたび戦火に包まれました。この門が残っていれば、京都市街地の雰囲気は、もう少し違ったものであったかもしれません。



東寺は現存していますが、西寺は現存していないのでしょうか?

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現在は礎石とモニュメントが残っているのみです。

東寺と西寺は、どちらも羅城門を守護する目的で建造されました。ほぼ同規模の寺院であったとされ、京都では有数の寺院であったと考えられています。

824年、干ばつの際に神泉苑にて祈祷が行われました。このとき祈祷を行ったのは東寺の空海と、西寺の守敏という僧侶です。このとき空海は見事竜王を呼び寄せて雨を降らせて守敏に勝利しました。敗北を恨んだ守敏は空海に矢を放ちましたが、黒衣の僧が身代わりとなって空海を守りました。このときの僧は地蔵菩薩であったといわれており、羅城門の近くに矢取地蔵として残されています。

このときより西寺の衰退が始まり、その後寺院のほとんどが消失してからは、平安京西部の衰退もあって、1233年の五重塔の焼失を最後に姿を消しました。現在は金堂礎石の一部が西寺公園に残されているのみです。



室町幕府はどこにあったのですか?

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細かいことをいうと、室町幕府は3ヶ所にありました。

1333年、足利尊氏(当時は高氏)が京都六波羅幕府軍を、新田義貞が鎌倉幕府軍を倒し、鎌倉時代は終焉を迎えます。その後足利尊氏は鎌倉に向かい、旧鎌倉幕府跡に住居を構えます。これがある意味最初の幕府というわけですが、このとき彼は征夷大将軍を自称しており、その後京都の後醍醐天皇を中心とする政権との決着を必要としました。

尊氏はその後入京し、光明天皇を擁立して1338年に征夷大将軍に任命されます。この前にには新田義貞や北畠顕家、楠木正成らとの戦いがあるのですが、これについては教科書や専門書をお読みいただき、造詣を深めていただければと思います。

入京後、尊氏は二条高倉近辺、清浄華院(しょうじょうけいん)の境内地に住居を構え、ここを室町幕府としました。幕府の機能自体は三条坊門万理小路(ぼうのもんまでのこうじ)にあったためか、この頃の幕府は「三条御所」と呼ばれています。これが2つ目の室町幕府であり、正式な室町幕府の誕生です。
この建物は「等持寺(とうじじ)」と号され、寺としての機能を備えていました。幕府の機能が別の場所に移ってからは足利家の菩提寺として保護されましたが、応仁の乱で消失し、等持院に合併されました。等寺寺町という地名があり、当時の名残が見えます。



では、3つ目の室町幕府も尊氏が建造したのですか?

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3つ目の室町幕府は、足利義満が建造しました。

3つ目の室町幕府は、第三代将軍足利義満が1378年に、消失した仙洞(せんとう)御所近辺の土地に造営しました。東西は烏丸小路(現在の烏丸通)から室町小路(現在の室町通)まで、南北は北小路(現在の今出川通)から毘沙門堂大路(現在の上立売通)までの敷地であったといいますから、現在の京都御苑のちょうど西側に、広大な敷地を備えていたことになります。
この幕府は足利氏の邸宅を兼ねており、その権力を誇示するような様相を備えていました。庭には鴨川から水を引いて池を作り、四季の花を植え、たびたび天皇や貴族を招いて遊宴が行われました。俗に「花の御所」と呼ばれるのは、この絶えることのない花の様子からだといえるでしょう。

応仁の乱の際には仮御所として天皇を迎え入れたこともありましたが、1476年、近辺に放火が起こった際にほとんどの建物が消失してしまいます。再建は試みられたものの幕府としての機能が元に戻ることはなく、将軍は近隣の武将の武将を頼って各地を転々としたようです。
その後京都に平安が戻るのは、豊臣秀吉の治世になってからということになります。



本能寺って「本能寺の変」で焼け落ちたんじゃないんですか?

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焼け落ちました。本能寺って2回移転して7回再建されているらしいです。

他の質問でも取り上げましたが、京都は戦乱のたびに各所に陣が構えられ、戦が行われました。敷地が広いということから寺社の境内に陣立てされたことも少なくなく、この軍勢が敗北すると寺社ごと焼き捨てされたりしたわけです。もっとも、寺院自らが武力を保持していた例もありますので、一概に被害者といえないこともまた事実なのです。

本能寺は、15世紀初頭に本門法華宗の大本山として、今の五条坊門あたりに建立されたといわれています。1530年頃までは、一向一揆に対抗する勢力として政治と結びつき、都での勢力を大きく伸ばしましたが、その後行きすぎた権力を振るうようになり、結びついたはずの政治や、他宗と武力衝突することになります。
結果比叡山の僧兵に多くの寺院を焼かれ、法華宗は都での力を失ってしまいました。この争いは「天文法華の乱」(1536年)といわれ、本能寺もこのときに焼失しています。

本能寺はその後、油小路蛸薬師に再建され、都での法華宗の中心地として再び活動を始めます。ですが、それから50年も経たない1582年、逗留中の織田信長を襲った明智光秀の軍勢により再び焼失してしまうことになります。現在この地には小学校があり、その名も本能小学校といいます。正門横及び裏手に、わずかに石碑が残されています。



では、現在の本能寺は誰が再建したのでしょうか。

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現在の、ではありませんが、現在の位置に再建したのは豊臣秀吉です。

本能寺の変よりわずか5年ほど後のこと、羽柴秀吉は九州征伐を終え、本格的に洛中復興に乗り出します。
当時の平安京東端である「東・京極通り」に洛中の寺社を移し、現在の寺町通りの基礎を創り上げます。その際、かつての主君である織田信長および戦死者の菩提を弔うため、寺町御池の地に本能寺を再建しました。これが現在の本能寺の地となり、本能寺は二度移転されています。
境内には本堂の他、信長公を奉った廟や戦死者の墓所が存在し、一見するとここが遭難の地にも見えます。信長公の墓碑も存在しますが、当然のことながら中身はありません。

その後何事もなく、といいたいところなのですが、明治維新を間近に控えた1864年、蛤御門の変にて京都が再び戦乱の舞台となった際、砲撃によって本堂は大破し、長州藩邸からの出火によって消失してしまいます。最後の再建が終了したのは1928年(昭和3年)のことで、現在の本堂はその頃からのものということになります。

しかし、平安京遷都より1200年が過ぎましたが、京都というところはつくづく建物が長持ちしない土地です。豊臣秀吉公がいなければ、今頃どのような町並みになっていたのか、なかなか興味深いというか、恐ろしいというか…



三条大橋のたもとで土下座している人の銅像があるのですが、この人は誰ですか?

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高山彦九郎という、寛政の三奇人と呼ばれた中の一人です。

「寛政」とは、明治維新から遡ること6、70年前の、1789~1804年の年号です。1790年には、幕府により、儒学の一つ朱子学が官学として正式に決定され、鎖国政策の強化と共に、長期の安定によりどこか揺らぎのあった徳川幕府を中心とする武家社会の再確立を図りました。

高山彦九郎は、1747年に上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市細谷町)に生まれました。裕福な農家の生まれであったとされますが、新田の名が示すとおりこの地は新田義貞の領地であり、祖先は重臣であったと言われます。
後醍醐天皇を支えた新田義貞の家臣ということからか、幼少に「太平記」を読んだ彦九郎は、南朝が正統とならなかったことに憤りを覚え、強い尊皇思想を抱くことになります。彼は京で学者を目指し漢学を学んだ後、死ぬ間際まで全国を旅し、様々な交流の中で伝えられた彼の意志は、彼の死後、水戸や九州を中心として明治維新の根本を成す尊王論として多くの人物に影響を与えることになります。

一方、当時の徳川幕府からすれば、彼の行状は幕府に反逆心あり見えるものであり、幕府の手によって身柄を拘束されたこともありました。幕府から要注意人物とされた彼は何かと行動に制約を受け、そうしたことが積み重なってのことか、1973年九州は久留米の地で、高山彦九郎は自刃して生涯を終えることになります。



高山彦九郎は、なぜ土下座をしているんですか?

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あれは土下座をしているのではなく、拝礼しているのです。

強い尊皇論者であった高山彦九郎にとって、天皇がお住まいになる御所は、崇拝の対象ともいえる存在でした。

幼くして尊皇思想を抱いた高山彦九郎は、18歳のとき京に上り、学者を目指し漢学を学びます。勤王論者として全国を回り、その後念願かなって天皇に拝謁がかないましたが、このような彼の行動こそが彼を危機に陥れることになりました。

彼は京で学者を目指し漢学を学んだ後、死ぬ間際まで全国を旅し、身分を問わず様々な人物との出会いを繰り広げることになります。京都を訪れた際には皇居(御所)に向かい、土下座しての拝礼をしたという言い伝えがあり、銅像の姿はこのエピソードからきたものといえるでしょう(顔はかなり晩年のものといえます)。

昔の歌にサノサ節と呼ばれた、こんな歌があります。

 

人は武士
気概は高山彦九郎
京の三条の橋の上
遙か皇居を節拝み
落ちる涙は
鴨の水
さのさ

その拝礼は、寂れ果てた皇居を見て崩れ落ちたものかもしれません。



寛政の三奇人の残り2人は誰ですか?

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林子平と蒲生君平です。

林子平は江戸に幕臣の子として生まれました。父が改易されたために浪人となりましたが、姉が仙台藩主の側室となったために兄とともに仙台に移り住み、禄を受けることとなります。質素な生活をしながらも全国を行脚し、江戸や長崎にて学びました。
彼はロシアの南下政策やヨーロッパのアジア植民地政策を危惧し、国防論を説きましたが、晩年に起こった寛政の改革は蘭学やそれに影響を受けた思想をよしとせず、彼は蟄居させられ、無念の内に死んでしまいます。

蒲生君平は宇都宮の生まれです。町人の生まれでしたが先祖が会津藩主蒲生氏郷ということを聞き、姓を蒲生に改めました。とはいえ武士として生きることは出来ず、彼は学者として生きることを決意します。儒学を学び、古墳を研究し、天皇陵に関するものなどいくつかの書籍を記していますが、金になる内容ではなかったためか、生活は赤貧そのものであったといわれます。ロシアの南下政策を危惧して国防論を説いた「不恤緯(ふじゅつい)」によって幕府に目をつけられることになりました。

高山彦九郎、蒲生君平ともに林子平邸を訪問した記録がありますが、高山彦九郎と蒲生君平が出会ったかどうかはわかりません。3人とも江戸幕府の政策に危機感を抱いたために志半ばで生涯を終えています。ですが、その遺志は多くの人物の心を揺り動かし、明治維新へとつながっていくことになるのです。



清水寺近くの「三年坂」は正式名称ではないそうですが?

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正しくは「産寧坂」といいます。

清水寺から清水坂を下り、五条坂との分かれ目。北側に進むと、石畳の道にむしこ造りの土産物屋が立ち並ぶ、いかにも観光地京都らしい一角に入ります。「産寧坂伝建地区」と呼ばれ、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている一角です。

三年坂(産寧坂)の名前の由来は諸説紛々あり、「これが正解です」というものはどうやらないらしいのです(筆者の取材不足でしたらすみません)。
もっとも有名なのが、現在は清水寺境内の中にある子安観音への参拝道にあたるからというもの。また、「この坂が出来たのが大同3年(808年)だから」「清水寺にお参りし、願いがかなった人が再度お参りにくるところから『再念坂』である」というものなどです。

筆者が25年ほど前に聞いた説の中には、「この坂で転ぶと3年以内に死ぬから」などという物騒なものもありましたが、同様の内容が二年坂の由来として立て札に記載されています。記憶間違いなのかとも思いますが、「私も三年坂の由来でそう聞いた」という人が居られましたら、ご一報いただくとうれしく思います。

これは筆者の推測ですが、諸説あるということは、実ははなから正解といえるものはないということの証明であるという気がします。おそらくは、特に名もなかった通りを誰かが適当に名前をつけて呼びはじめ、あとから理由がついてきたのではないでしょうか。



清水寺の周りには二年坂や五年坂などもあるのですか?

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一年坂、二年坂、三年坂はありますが、四年五年の坂はありません。

三年坂を過ぎると、その北端付近から二年坂(二寧坂)が始まります。こちらの由来も上から派生したようなものばかりで、実際はどちらが古い道であるかすら定かではないような状態です。
その由来が書かれた立て札がありまして、こちらに「この坂で転ぶと2年以内に死ぬから」ということが書かれています。警局が坂道・石段に気をつけるようにということで言ったとのことですが、もう少しましな言い方はなかったのでしょうか。

二年坂の北端から一年坂(一念坂)となります。比較的新しい道で、こういうと何ですが観光用に都合のいい名前を付けただけではないでしょうか。

この辺りは京都でも有数の観光名所となっており、土産物屋も軒を並べて観光に来る人を待っています。お土産物としては、産寧坂角にある「七味屋本舗」の七味、清水坂にある「ようじや」の油取り紙あたりが有名です。また、二年坂の入り口付近にある「かさぎ屋」は、大正の画家竹久夢二が常連だったことで有名な甘味処。おしるこを中心に、あずきを使ったメニューを楽しんでください。

昼間は観光客の姿が絶えず、かなり人の多いこの地域。よく知る人たちは、夕暮れ時の時間帯のほうが魅力的であるといわれます。雰囲気のよさそうな料理屋を探し、夜に訪れてみるのもいいのではないでしょうか。



京都市内には昔、今あるもの以外に私鉄が走っていたらしいのですが?

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JRの路線には私鉄を国有化したものも多いのです。

1872年(明治5年)、新橋-横浜間で鉄道が開通し、それが神戸にまで延びて現在の東海道線の元となったのは1889年(明治22年)のことになります。明治時代中期はある種の産業革命の時期でもあり、その一環として、全国各地で鉄道敷設に対する活動が行われることになります。
地方での鉄道敷設にはそのための民間会社が設立されることも多く、京都でも1893年(明治26年)に京都鉄道会社という民営鉄道会社が設立され、私鉄鉄道の免許を交付された上で京都から舞鶴までの鉄道敷設を担うことになりました。

保津峡付近の難工事を乗り切り、1899年(明治32年)京都-園部間が開通の運びとなった京都鉄道は、その後も舞鶴までの延線を図るとともに既存沿線での利便性を向上すべく駅を開設していきます。
しかし、京都鉄道会社は資金調達に難航した園部-舞鶴間の敷設を政府に委託。1906年(明治39年)には鉄道国有法が公布され、全国17の私鉄が以後10年以内に国有化されることとなります。翌年8月、京都鉄道会社は全ての業務を政府に引き継ぐことでその役目を終えることとなりました。京都-園部間は、国鉄からJRとなった今でも、JR山陰本線として利用されています。



二条駅って以前は木造だったと思うのですが、取り壊しちゃったんですか?

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現在は、梅小路蒸気機関車館で見られます。

京都鉄道株式会社が二条駅を開設したのは1904年(明治37年)のことです。ちなみにこの年は、京都駅で駅弁の立ち売りが始まった年でもあります。
木造二階建ての建築物は入母屋造りの屋根を持ち、お寺か小さなお城かというような荘厳な雰囲気を感じさせました。平安神宮の本殿を模したとも言われています。当時は京都鉄道の本社としての機能も兼ね備えていました。

二条駅は大きな災害にも遭うことなく大正~昭和と長くその役目を果たし、全国でも数少ない木造駅舎として多くの鉄道ファンの訪れる先となっていました。
が、長らく単線だった嵯峨野線(山陰線)は徐々に複線化していき、その結果、いくつかの駅で対応工事が実施されます。そして1996年(平成8年)、嵯峨野線(山陰本線)二条-花園駅間の連続立体交差事業に伴い、旧二条駅舎はその役目を終えることとなりました。
しかしその希少性を惜しむ声も多かったことから、木造という利点を活かして丁寧に解体され、全国で唯一の蒸気機関車博物館である「梅小路蒸気機関車館」に移築・復元されました。現在は、博物館の入り口部分、資料館として、日々多くの人が訪れています。

京都在住の筆者は、「梅小路蒸気機関車館」というとはるか昔に遠足で行った覚えがあるのですが、このたびかなり久しぶりに行ってみました。やはり子供を連れた親子連れのお客が多いのですが、久しぶりに見る蒸気機関車の迫力は、正直なかなかのものでした。興味がある方は、一度行ってみてください。



歌舞伎の忠臣蔵で有名な一力茶屋って本当にあるんですか?昔は「万茶屋」と呼ばれていたそうですが…

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祇園の真ん中に実在しています。行っても入れないと思いますけどね。

赤穂浪士の討ち入りはあまりにも有名な事件ですから、どのような経緯で何が行われたかなんてことはいまさら説明の必要もないでしょう。松の廊下での刃傷事件が起きてから討ち入りが実行されるまで約1年半、そのうち約1年を、大石内蔵助は京都山科の地で過ごしています。

内蔵助が遊興に出かける先の1つに「万亭」というお茶屋がありました。お茶屋というのは元は茶店の意ですが、江戸時代ではすでに花街の店を指していました。
この「万」の字を「一」と「力」に分けて一力亭。祇園花見小路に店を構えるお茶屋で、赤前垂れと呼ばれるその暖簾には、「万」とも「一力」とも読める字が染め抜かれています。いつ頃から名前が変わったのかは、申し訳ありませんがわかりませんでした。

歴史好きの人であればぜひ一度入ってみたいと考える人もおられるかもしれませんが、あいにくこちらのお店は「一見さんお断り」。いきなり入るのは難しいものがあります。観光ならば外から見るだけで我慢しましょう。



大石内蔵助は本当に一力に行っていたのですか?

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行ったことがあるかも知れませんが、一番のひいきではなかったようです。

大石内蔵助が京都に逗留していた間、遊びほうけていたこと自体は本当らしいのですが、史実をしっかりと検証した場合、彼が足繁く通っていたのは一力ではなく、笹屋というお茶屋らしいです。
笹屋は同じ京都でも伏見にありました。伏見というと寺田屋のあたりを思い浮かべる方もおられると思いますが、笹屋があったのは撞木町というところ。現在では石碑のみが当時の存在を示しています。

なぜ笹屋が一力茶屋になったかというと、この赤穂浪士の討ち入りを基にした歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」にて、笹屋に当たる場所として登場するのがここ一力茶屋で、この演目があまりにも名声を博したがゆえに事実であるはずの笹屋が隅に追いやられてしまったと考えられます。
討ち入りを扱った歌舞伎自体は翌年早々に上演され、幕府の手によって上演差し止めになったりしています。その後もこの事件を扱った歌舞伎や浄瑠璃はたびたび上演されており、その集大成として現代まで残ったものの1つが、事件後47年たって上演された「仮名手本忠臣蔵」だということになります。
「仮名手本忠臣蔵」では、幕府の追及を避けるため、登場人物の名前も場所の名前も極力変えることになりました。当然笹屋も名前を変えて出すことになりましたが、このとき、執筆者が懇意にしていたお茶屋の名前を使った、とかというのが案外真相のような気がします。もしかすると、つけをチャラにする代わりに名前を出せということになったのかもしれませんが…



大石内蔵助が出かける際に使った道があるそうですね。

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大石道(大石街道)が、その名を冠しています。

大石内蔵助が腰を落ち着けていたのは山科の地。東海道が通る交通の要所。有名な「逢坂関」もこちらにあります。市街地との間には東山があり、当時は農村地帯だったといわれています。
内蔵助が腰を落ち着けていたのは、山科西野山地区だといわれています。閑居先は岩屋寺だとする説が一般的なようですが、明確にここだと断言できるわけではないようです。現在この地には大石神社なるものがあり、この地にゆかりのある大石内蔵助を本尊として祀っていますが、これは1935年(昭和10年)に建立されたもので、当地での内蔵助の人気のほどが伺えます。

この閑居先から一力亭に至る道の一部を、現在では「大石道(大石街道)」と呼んでいます。市内に出る際には使用していたのでしょうが、伏見の笹屋に通う際に利用していたかどうかはわかりません。
現在の大石道は、正直、特に歴史的な何かを感じさせるような道ではありません。通ったという以上の道ではありませんので、観光には全く適していないと言っておきます。