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三月~山茱萸(さんしゅゆ)の花と遣迎院(けんごういん) プリント メール
作者 たきねきょうこ   

山茱萸(さんしゅゆ)の花 溢れんばかりの日差しの豊かさに、街全体が黄身色の濃淡に染め分けられていくような、春、弥生。

 特にこの季節、春の化身のように思われる黄色の花々の中で、一番先んじて咲き染めるのは、山茱萸(さんしゅゆ)の花。普段は目立たないこの木のまわりが、この時期、集まってきた春が、くすくす笑いをもらしているような鮮やかさで彩られます。

 市内より春の訪れの少し遅い北区・鷹峯(たかがみね)の古刹、遣迎院(けんごういん)の山門脇にも、山茱萸の古木が、こぼれそうな黄金色の小花のかたまりをいくつも咲かせて、訪れる人に春の到来をやさしく教えてくれます。 
特に満開の花時、細かい球形の花が小枝の先ごとに集まって咲くさまは、まるで、木全体が真っ黄色に覆われたように見えることから、春黄金花(はるこがねばな)との別名をもつほどのまぶしさ。

 この中国が原産のミズキ科の落葉高木は、朝鮮を通じて享保七年(1722年)に果実が渡来し、江戸・小石川の幕府御薬園で育てられ、やがて全国に広まっていったとされています。最初はその実の薬効を尊び、果肉を乾燥させ煎じて酒に浸しては、解熱剤や滋養強壮剤として用いられていたようです。
楕円形の果実は、秋になるとあざやかな紅色に熟すので、「秋珊瑚」(あきさんご)とも「やまぐみ」とも呼ばれ、趣に富んだ春の花の美しさとともに、次第に観賞用のお茶花として、好んで庭木として植えられるようになっていきました。
また緻密で堅い材質は、細工物や色々な器具として利用されてきたためか、「耐久」との花言葉を送られており、このことからも人とこの木の、長くて深い結びつきが偲ばれます。

遣迎院門前 この遣迎院の山茱萸の木も、寺院とともに幾多の歳月を耐えて、なお今も、花を開き、実を結ぶ古木の気概も一緒に、曲がりねじれ上がった太い幹にたくわえ込んでいるよう。
遣迎院は、正治三年(1201年)に藤原道家が東山の三ノ橋南に建立し、当初は盧山寺(ろざんじ)・二尊院(にそんいん)・般舟院(はんじゅういん)とともに、「四箇本寺」と呼ばれていたことが寺伝に記されています。その後、幾多の場所や寺号の変遷を経て、昭和三十年(1955年)、上京区北之辺町から移転され、現在の鷹峯に安住の地をえられたとのこと。
浄土へと「遣わされる」お釈迦さまと、浄土で「お迎え」になる阿弥陀様二体のご本尊をお祀りされていることから、「遣迎院」と名付けられ、重要文化財に指定された立像二体のうち、阿弥陀如来の足柄には鎌倉前期の名仏師「安阿弥」(快慶)の銘が残されています。

 本堂内部は公開なさっていませんが、きっと二体の如来さまも、また巡り来た山茱萸の黄金色の花盛りを、まぶしげに眼を細めて、今年もお堂の中からお楽しみになっていらっしゃることでしょう。

遣迎院

遣迎院(けんごういん)

説明 浄土真宗遣迎院派の本山。天明八年(1788年)正月の大火で類焼後、本堂・書院・聖天堂・庫裏・地蔵堂が再建され、昭和三十年(1955年)の移築の際、天台宗から浄土真宗に改宗し、現在に到っています。
住所 京都市北区鷹峯光悦町(Googleマップで表示
交通 市バス「源光庵前」下車 西へ徒歩5分

 
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