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二月~お年越しといわしのやいたん プリント メール
作者 たきねきょうこ   

 この豆まきを含むお年越しの行事は、中国から遣唐使によってもたらされた「追儺」(ついな)または「鬼遣い」(おにやらい)の儀式に由来しています。慶雲(けいうん)三年(706年)の疫病の流行の折、文武天皇が鬼遣いを行い、その後文徳天皇の時代(850年代)より行事化していったといわれています。
 追儺の儀式は、年越しの夜、まず舎人長(とねりちょう)が黄金四ツ目(おうごんよつめ)の仮面を被り、玄衣(げんい)に朱の裳をつけ矛と楯をもった「方相氏」(ほうそうし)に扮して、大舎人(おおとねり)扮する鬼を追い回すことからはじります。そして、霊力が強いといわれる桃の弓に葦の矢、それに桃の枝を持った殿上人(てんじょうびと)が射掛けて、最後は、鬼を退散させるというもの。
 今も、左京区の吉田神社(よしだじんじゃ)では宮中そのままのかたちで、二月二日の節分祭の前夜祭として執り行われていて、赤・青・黄色の三匹の鬼が三本の矢で追われていくと、参集殿前に集まった人々の間からどよめきが上がります。また、家から持ち寄られた半紙包みの歳の数よりひとつ多い煎り豆たちが、明日からはじまる一年の息災への願いと一緒に包み込まれて、納所へとおさめられていきます。

 その他にもお年越しの日、京都の社寺のあちこちで、追儺式や節分祭が営まれます。

 上京区の盧山寺(ろざんじ)では、「鬼法楽」(おにほうらく)の名前通り、太鼓とほら貝に合わせ松明と宝剣を持った赤鬼に、大斧を持った青鬼、また大槌を振り回す黒鬼が舞台せましと踊りまわりますし、東山区の八坂神社では、あでやかな綺麗どころによる福豆まきが催されます。福の神によって蓬莱(ほうらい)から招かれた八坂さんの四匹の鬼たちは、福をもたらす「良玉」(りょうだま)の鬼とされていて、舞台上で福の神と仲良く盃を交し合う、和やかな酒宴の舞台も個性的です。
 中京区の壬生寺(みぶでら)では、二日と三日にわたって節分会として、壬生大念仏狂言が催されます。風俗や歌謡を豊富に取り入れた狂言はユーモラスで、人も、鬼をも食った面白さ。
 またこの両日、授与される素焼きの焙烙に名前と年齢を書いて奉納すると、四月の壬生狂言の「焙烙わり」の舞台で割っていただけ、その年の厄除け招福になるといわれており、例年、参道から境内まで、多くの人出で賑わい立ちます。

いわしのやいたん

 そして、お参りも終えて、豆まきも済ませたお年越しの締めくくりは、「いわしの焼いたん」と「麦御飯」の夕餉。
 これも、油ののったいわしをジュウジュウ焼く臭いと煙たさに閉口した鬼たちが、たまらず棲処の山へ逃げ帰って行くよう、焦げ目がつくくらい焼くのだとか。いただく方は、アツアツの麦御飯といわしを美味しくよばれておいて、残ったお頭は、ヒイラギの小枝に刺して戸口に立てておきます。ヒイラギの尖った葉先は、魔除けとして鬼の目をさすともいわれていて、これでもかと言わんばかりの鬼への追撃の数々に、なんだか食べてばっかりのこちら側は、鬼たちへの気の毒さが先立ってしまいます。
 もっとも、いわしもヒイラギも実はどちらも「冬」そのものの象徴で、「鬼」によって象徴された疫病や災厄、それに寒気を追い払い、少しでも早い春のいのちの再来と再生を願った、私たち祖先の生きていくための切実な祈りだった、というのがそのもっともらしい理由のようなのですが。

ウグイス 我が家では、厄を背負わされて悪者扱いの鬼に、一家一致で同情的。ウチでは毎年、「福は内、鬼は内」と豆まきにいそしんでいます。
 帰る山のまだ遠い鬼たちや、また帰る山を失った鬼たちも、一緒にこたつで温もりながら、ウグイスの初音が聞こえる頃まで、ウチでいっぷくしていってくれはるとええなあ。

 確実に近づいて来ている新しい春が、人にとっても、人の畏れ敬ってきた森羅万象の霊や異能のものたちにも、それからなにより、人それ以外の生きとし生けるものとって、おだやかなさいわいごとのたくさん芽吹く、良い春になりますように!
 もとい、私たちの知恵とおこないで、良い春にしていくことが出来ますように!

 

(2002.2.25)



 
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