七月~たなばたさんと御手洗団子(みたらしだんご)
作者 たきねきょうこ   

御手洗団子(みたらしだんご) 小止みの梅雨空の軒先に、子供達が作った七夕飾りが揺れると、もうすぐたなばたさん。

折り紙でこしらえた切り紙飾りや、無邪気な願い事を、笹竹に吊るして、七夕の夜、星の出を願ったのも、随分、昔のこと。「たなばたさんやさかいに」と祖母は、てるてる坊主を作る幼い私に、付き合ってくれたこともありましたっけ。

 考えてみれば七夕を「たなばた」と読むのも、不思議な気がしますが、元々は「棚」(たな)「機」(ばた)と記されていたようです。

 古来より私達の国では、水の上に棚を作り聖なる乙女が機を織って、7月7日の夜、遠くから訪れる神様(希人神・まれひとがみ)をもてなし、お迎えするという祀りごとが行なわれていました。その乙女を棚機女(たなばたつめ)とか乙棚機(おとたなばた)と呼んだことから、この日を棚機と呼ぶようになり、その後、平安の頃より、七夕と書き記されるようになっていきました。

 また、この旧暦の七夕の頃は、麦やあわ、ひえなど、作物の実りの季節でもあり、七夕は、畑の収穫祭としての意味合いもあったようです。
恵みの授け手である自然への感謝と畏怖心が、「たなばたさん」の原意として、いにしえより、引き継がれ続けてきているように思われます。

 また、七夕の夜といえば、牽牛(けんぎゅう)と織女(おりひめ)が、1年に1度の逢瀬を楽しむといわれていますが、中国の「荊楚歳時記」(けいそさいじき)に、私達にもおなじみの、次のような説話が記されています。

 「天の河の東に天帝の娘、織女が住んでいて、いつも色鮮やかな天衣を機織っていた。独り身を案じた天帝は、天の河の西に住む牽牛との結婚を許したが、その後、織女は機を織ることを止めてしまった。怒った天帝は、ふたりを天の河の東西に隔て、1年に1度、7月7日の夜にだけ、河を渡って逢うことを許した。」

 織女と牽牛(彦星)が相思いしながら、1年に1度しか逢うことが叶わないという、高い物語性と情緒性に溢れたこの伝説は、萬葉集の時代から人々の共感を呼び、この日を「星まつり」と称して、さまざまな想いを星に託し、また星に馳せながら、この夜のつつがない星合いを祈りました。

牽牛 与織姫 今夜相 天漢門尓 波立勿謹
(ひこほしと たなばたつめと こよいあふ あまのかわとに なみたつなゆめ)
                                   「萬葉集」(二〇四〇)

鵲(かささぎ)の橋 また牽牛と織女、2人の逢瀬を、鵲(かささぎ)が翼を連ねて、天の河に橋を架け、手助けすると言い伝えられています。
 鵲は、かちがらすとも、高麗烏とも呼ばれるカラス科の鳥で、北九州を中心に棲息し、佐賀県の県鳥にも指定されています。肩羽と腹面とが白泥色、その他は漆黒の羽に覆われていて、その対比の鮮やかさと美しさが、天の河をも渡しおおせると考えられたのでしょうか。「鵲橋」(かささぎばし)とも、「烏鵲橋」(うじゃくきょう)とも呼ばれるその橋に、平安びとは、宮中の御階(みはし)をなぞらえて、多くの名歌を残しています。

かささぎの 渡せる橋に置く霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける
                                  小倉百人一首 (六) 中納言家持

 天上のかささぎ橋の上で、1年間のあれこれを秘めて彦星と織姫、二星が手をとり逢う頃、地上では、それぞれの子供時代を包み込みように、その想いいのたけの短冊が、笹竹を揺らしていることでしょう。
この七夕飾り、奈良時代に中国から伝わり年中行事として取り入れられた「乞巧奠」(きっこうでん)が、その由来とされています。
 これは織りの巧みな織女にあやかろうと、技芸や詩歌手蹟の上達を祈った行事で、江戸時代から町衆の間でも、広く行なわれるようになっていきました。今も、昔からのしきたりを大切に守り続けていらっしゃる冷泉家(れいぜいけ)では、7本の針に五色の糸を通してお供え物を上げ、二星がおいでになる客間をしつらえ、梶の葉に和歌をしたため、平安時代そのままに夜明けまで歌を詠み合い、この夜を祝います。
 古式ゆかしく梶の葉を浮かべた角だらいには、取り込まれたような天の河が、夏の夜風にさざなみ立っていることでしょう。

蛍舞う川 この日、各神社でも七夕飾りに彩られた七夕祭が、催されます。
 上京区の白峯神宮で行なわれる精大明神祭(せいだいみょうじんさい)では、梶鞠(かじまり=けまり)の奉納のほか、紫の鉢巻に片袖をぬいた緋襦袢姿も愛しげな女童たちの、「七夕小町踊」が舞い納められます。この踊りは、江戸時代初期から京の町で流行った、太鼓を叩き、盆歌を歌いながら、着飾った町娘が輪になって踊ったといわれる「七夕踊り」が、その由来となっています。

 東山の清水寺内の地主神社や「天神さん」で知られる北野天満宮でも、梶の葉を器代わりに、初夏の実りと、花々がお供えされます。生け込まれたほおずきには、薄黄色の杯型の花と一緒に、もう小さい実が、見え隠れしているかもしれませんね。

 北野天満宮の七夕祭には、初夏の恵みのほかに、神前に御手洗団子がお供えされます。御手洗祭とも呼ばれるこの祭りにお供えされるお団子は、上新粉を練って丸め、5つのお団子を串に刺しただけの簡素なものですが、なんと100本も、神殿前に奉納されます。この御手洗団子、豊臣秀吉が北野で大茶会を催した際にも献上され、その風味を愛で賞したと伝えられていますが、秀吉公が召し上がったのは、炭火でこんがり焼き目をつけて、黒蜜のたれに漬け込んだ、私達にもお馴染みの御手洗団子の方だったようです。

 御手洗団子は、よく見ると、一番上がやや大きく、2番目以降との間が少し開けられて作られています。これは、一番上を頭に、残りを四肢になぞらえ、人のかたちに模して、厄を払うという意味があるからなのだそう。 今も昔ながらの竹の皮に包んだ、あつあつのお団子を、指先から口のまわりまで蜜で黒光りさせながらほうばると、懐かしい黒砂糖の風味が、口中にじんわり広がっていきます。
 残った蜜を、「あとでよばれるさかい」と仕舞っていた「もったいながりや」の祖母に似てか、鼻の先にまで黒蜜をつけた息子が、残った蜜を集め込んでは、小皿に集め、舐めようと背中を丸め込んでいる姿は、質素を旨とする我が家の養生訓なのか、甘党DNAのいじましさのなせる業なのか・・・。

 何はともかく、
  はるか天上では、晴れ渡った夜空に、二星、逢いまみえ、睦みあわんことを、
  こなた地上では、笹飾りを揺らす幼き子供らに、すこやかな幸いの多からんことを。
  われら黒蜜の滋養と味わいに、この夏のつつがなさを祈りつつ。