八月~地蔵盆とおいもさんの蒸したん
作者 たきねきょうこ   

おいもさん 蒸し暑さでは名うての京都の夏。
 建具を夏の葦戸にかえて、網代や籐の敷物ひいて、玄関先や坪庭に打ち水して・・・
 夏の町家のしつらえがこれだけ細やかなのも、その暑さゆえのこと。

 それでも八月十六日の大文字の送り火のともるころには、路地脇のお地蔵さまのあたりから、虫たちのすだく、かすかな音色が聞こえだします。

 京都の町には、町内という町内のどこかに、小さなお堂におさめられたお地蔵様がおまつりされていて、朝な夕なに手を合わせていくご年配の方々をはじめとして、地域のみんなから「おじぞうさん」と、親しまれています。
 このお地蔵さんをかこんで、大人も子供も仏さまと一緒に夏の終わりのひとときを過ごすのが、京都の「地蔵盆」です。

地蔵菩薩画像(醍醐寺所蔵) 私たちにとって、馴染み深い仏さまのおひとり、このお地蔵さん=地蔵菩薩は、梵語で「クシティガラバッハ」と呼ばれ、釈尊の入滅後、五十六億七千万年後にあらわれて、世界を救済するとされる弥勒菩薩が出現するまでの無仏の期間、衆生の人々を教え導き、救ってくださる仏さまとして、平安時代の頃から、盛んに信仰されはじめました(左は、醍醐寺所蔵の国宝、地蔵菩薩画像)。

 左手に宝珠、右手に錫杖を持った剃髪・比丘姿の地蔵菩薩は、無仏の世にあって、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界)に迷うすべての人々を正しい仏の道へいざなうとのことから、「六道能化」(ろくどうのうげ)とも、よばれています。
 また、地蔵菩薩は三途の川の川縁で、石を積んでは父母を回向する幼い子供たちを、地獄の鬼から守ってくださる子供の守り手としても信仰され、お地蔵様の縁日にあたる二十四日を中心に、子供たちのための行事を行う慣習が、江戸時代あたりから根付いていったようです。

 八月の二十四日前後に行われるこの地蔵盆は、京都で育った誰もが子供時代の思い出として、やわらかな心のくぼみに大事に抱え持っている、懐かしいならわし。
 終わろうとする夏休みへの名残惜しさと、移ろう季節への切なさを、てんこ盛りにして・・・。

 地蔵盆の供養会は、八月二十日頃、まず町内のお地蔵様を洗い清めて、きれいにお化粧直しすることから始まります。お顔を胡粉で白塗りし、面相筆であらたに目鼻を描きこまれたお地蔵様は、新調された朱赤のまえだれ姿も鮮やかに、その年のお世話方の家に運び込まれ、準備されていたひな壇の上に据えられます。
 下の段には、蓮の蕾や鶏頭の花に混じって、紅白のお餅や水菓子(西瓜や桃などの果物)、おかぼ(かぼちゃ)やおいもさん(さつまいも)などの夏野菜が供えられ、赤い毛せんの上は、色とりどりのお供え物で、賑やかなこと!そのかたわらでは、朝早くから子供たちが、また軽いとりどりの夏服姿で集まってきて、熱気ムンムン、周囲はいっそう、賑わい立ちます。
 といっても、今では各町内の子供の数も、うんと少なくなってきて、私の子供の頃のような沸き立つばかりの活気も、目減りしてきてしまっています。
 それでも、地蔵盆の大きな行燈を道幅いっぱいに飾り上げて、提灯と床机を幾つも連ね、この期間だけ、路地への車の乗り入れを禁止する光景が、今も晩夏の京都の街のそこここで見受けられます。

街角の地蔵盆 さて、地蔵盆のお楽しみのスケジュールはというと、まず初日(二十二日頃)の朝の百万遍。これは、数珠まわしと呼ばれ、大きな数珠を輪になって子供らがかこみ、念仏を唱えながら回していくというもの。中に何個か組み込まれているひときわ大きな数珠玉のついたふさがまわってくる度、数珠ごと持ち上げてあん、とおまいりするのであちらこちらで小さな頭と、じんわり汗ばんだ髪がせわしく上下するのも、いとおしげなならわしです。

 お坊様によるおつとめ(読経)の後は、楽しみにしていた最初のおやつの時間。
 今では袋詰めのスナック菓子などが配られますが、私の小さかったころには、キャラメルや菓子パン、それに蒸し上げてあら塩をふったさつまいもが手渡されて、家に持ち帰り、手洗いもそこそこにぱくついて、また表に飛び出したもの。
 今でも地蔵盆が近づいてきて、お盆あたりではまだ細くて頼りな気だった蘇芳色のさつまいもが、赤紫色にふっくら丸みを帯びてくると、一度は「おいもさんの蒸したん」が、頬ばりたくなってきます。
口中に広がる素朴な甘やかさは、子供時代のつつましい暮らしぶりと呼び合い、引き合って、懐かしさをいっそう膨らませてくれるよう。

 午後になると、世話方の大人たちが、工夫しあった子供たちへの楽しい催し・・・金魚すくいやヨーヨーつり、紙芝居や紙細工、輪なげなどがはじまります。
 それが終わると、これまたお楽しみの福引。子供用には文房具やおもちゃが、大人(家庭)用にはバケツや石鹸などの生活雑貨が、くじと引き換えに手渡されます。
 小さかった私は、まわりの大人たちの「ええもんもろたな」「よかったな」のやさしい声掛けがうれしくて、気恥ずかしくって、とんで家に帰っては、景品と一緒に上気した気持ちごと、祖母に受け止めてもらいましたっけ。
 そのひと昔前は、「ふごおろし」といって、向かい側の家の二階に滑車をかけ、ロープを渡して、ふご(竹やわら、籐で編まれた手付きのかご)に当たった品物を入れ、二階からするすると渡してくださったのだそうで、各路地のなごやかな光景が目に浮かぶようです。

 やがて夕闇が迫ると、夜のお楽しみの盆踊りや、映画会、近くのお寺や公園を使っての胆だめしが行われます。浴衣で床几に腰をかけ、西瓜を頬ばりながら、線香花火の最後の火種を落とすまいと、背を丸めるのもこの時分。花火の終わりは地蔵盆の終わり、また夏休みの、そして夏の終わりをなしくずしに認めてしまうようで、あと片付けをためらって、また祖母にしかられたり。

 今年もそれぞれのお地蔵さんの前で数珠をまわし、花火にはしゃぐ、つたない手つきの子供たちに訪なう夏が、どうぞ、すこやかでありますように。
 子供たちが、お地蔵さんと共に過ごした夏の終わりを、しっかり受け止めながら、上手にあきらめて、なごやかな秋を迎えることができますように。

 地蔵盆が終わるころ、京都の町家は、もうすっかり秋へのしつらえ替えが済んでしまっていることでしょう。