第一回 思い出の町屋 其の一
作者 水井康之   

 ちいちゃい頃は、何やら暗くて恐いとこやなあと、うっすら記憶に残っていた家があります。
 それが今で言う、京都の町家やったのです。

 京都のずっと南のほうの田舎で育った、小生がまだ西も東も分からない頃、親に連れられて、これからこの家に入るさかいに、あれもしたらあかん、これもしたらあかん、と「いつもの悪さをしたらあかんで」とさんざん注意されてから、「こんにちは」とその家へ入らせてもらって、借りてきた猫のようにおとなしくしていて、ほんまにおもろないとこやなあ、と思ったことを覚えています。

Image それから、もう少し大きくなって、物事が分かる年の子供になってから、(時は終戦の少し前だったと思いますが)その家に連れていってもろて分かったのです、そこは、小生の伯母の家で、表は仕舞屋(しもたや)風ですが、手広い商売をされている、今で言う典型的な京の町家という家構えで、田舎の長屋で育った、はなたれ小僧には、ようこんな大きな薄暗い家に、人が住んでいるなあと思ったものです。
それから、この家には、長屋では見られないおもろい仕掛けと言うか、変わったことがしてあったことを思い出しました。
 立派なお家(うち)やのに、二階の各座敷の天井板がはずしてあり、屋根裏がまる見えなのです。それは、どの立派な京の町家でも、当時はみんなそうしたはったそうです。
空襲で焼夷弾が天井裏に止まらないように天井板をはずせ、との命令があったとか。また店の事務所の床下には、コンクリートで囲った立派な地下室の「防空壕」がありました。

 そんなお家にちょこちょこ遊びに行くようになったのは小学生の高学年の横着坊主の時でした、その家の伯母や年上の従兄が、小生をよく可愛がってくれた思い出があります。
 そこは、堀川三条を少し上がった東堀川通りで、家の前には、市電の北野線のチンチン電車が走っていて、堀川では友禅流し(のりを洗う)をしたはったと思います。と言いますのは、堀川へ石をほりこんで遊んでいたときに、川の中から「こらー!」と大声で怒られたことをはっきり覚えてます。あれは、友禅のオッサンやったはずです。
 また、市電のレールに釘を置いてつぶしてみたり、運動会の時に「よーい、ドン」に使うあの煙硝をレールに並べて、パンパンパンと音がするか試してみたりして、よう怒られたのも懐かしく思い出します。

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二条城前を走るありし日のチンチン電車(堀川線 10系統)
(ご協力:京都市電の廃線跡を探る

 それからしばらく年が経ち、小生も腕白時代を少し過ぎて高校生の時、しばしば伯母の家を訪ねるようになりましたが、もうその頃には伯母もいなくなり、年上の、といっても六つか七つほど年が違ったと思いますが、いとこの兄妹が住んでいました。そこへ小生が転がり込んで、昼間の留守番を兼ねて居候をしていたことがあります。
 自分勝手に歴史を感じたり、自分の目で珍しいものを一つずつ確かめて、どれをとっても成程、とうなずいて、生意気にあたかも一人前になったつもりで物事を解釈していたころに、あの大きな京の町家についても次のように色々考えを巡らしました。ほんまかいな、と思うことばかりですが、今考えてもそれ以外の解釈は見当たりません。

 そもそも京の町家は、かど(玄関)から一番奥の「はなれ」まで、下駄を脱がずに履いたままで行くことが出来る便利な「通り庭」という土間が通っているのです。
 それは何でかな、と考えてみました。ちょうど居候をしていた時に、奥の「はなれ」の屋根瓦の吹き替え工事をしたのですが、その時、職人さんが表から奥へ行ったり来たりしていて、「通り庭」のおかげで何一つ不便なく、仕事がはかどったことを覚えています。

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京の造り酒屋と町家文化を見学できるキンシ正宗 堀野記念館
(京都市中京区堺町二条上ル亀屋町172 TEL075-223-2072)

 というような、便利さのためだけの「通り庭」ではなく、件のオッサン(小生のちっちゃいときに、ちょこちょこお寺や神社の、お参りに連れていってくれて、京都の昔話や、そのお寺や神社の故事来歴を話してくれたなんでもよく知っている叔父のことを件のオッサンと呼んでいます)が言うことには、

「もっと深刻な理由があったのや。 それはトイレの問題で、京の町家のトイレは座敷からの上用と、庭からの下用があり、両方とも通り庭の奥にあった。そして昔は『通り庭』から汲み取りが出来るようになっていたのや。勿論裏口のある家は別やけど、ほとんどの町家は建て詰まっていて、玄関しか出入口があらへんさかい」

と言って、京都の上下水道の話をしてくれました。

「京都の上水道は、琵琶湖疎水のおかげで、明治の終り頃にはかなり普及してたんやが、下水道は昭和九年に吉祥院下水道処理場、昭和十五年に下鳥羽下水処理場が完成して、トイレの問題がぼちぼち解決してきたのやが、それまではこの『通り庭』がないと奥にあるトイレの汲み取りがでけへんやろ。そら他にも大事な役目があるかも知らんが、トイレのことが一番やで」

 京都の町家の「通り庭」がトイレのためにあったとは、ほんまかいなと思いますが、ほんまはこういうことやで、と知ってる人が居られましたら、教えて下さい。お願いします。

 小生の育った長屋でも、「通り庭」になっていて、町家と同じことが言えました。
 今ではあの居候をしていた堀川の町家も切り餅のような細長いビルに立ち替わっています。
 「イヤー失礼しました、では又」