一休さんは皇族というのは本当ですか?
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後小松天皇の落胤(私生児)といわれています。

一休は1394年の元旦に、嵯峨野の民家で生まれたと言われています。彼の母親は藤原氏一族の娘であり、彼女自身も宮仕えをしていました。後小松天皇の子であるという明確な証拠はないのですが、父親が全く問題ない相手であれば、彼女も嵯峨野の民家に逃げるようにして彼を生むことはなかったでしょう。
当時の室町時代は南北朝統一がなされた直後の、まだ武力闘争・政治闘争ともに活発な時代。彼女は親族が南朝とつながっているとして陥れられたために御所を出たと言われています。

後小松天皇は一休が18歳の時に退位し、その後に第一皇子実仁親王がわずか11歳で即位、称光天皇となりました。実際は後小松上皇の院政です。しかし称光天皇は26歳の若さで夭折してしまいます。その後に即位した後花園天皇は養子として迎えられています。そのいずれの際にも一休を天皇に祭り上げようという声は起こらなかったことから、当時一休は落胤として認識されていなかったものと思われます。

一休は高僧として様々な寺から招かれていますが、晩年に大徳寺住持に任ぜられても住むことはありませんでした。彼の名を冠する「一休寺」は、彼が住んでいた酬恩庵を寺としたものです。そこにある彼の墓は門扉に菊花の紋が彫られ、彼が皇族として扱われていることを示しています(宮内庁の管轄であるため、門より奥に入ることは出来ません)。