十一月~本能寺と火伏せの銀杏 |
作者 たきねきょうこ | |||||||||||
古都を綾錦に染め分けた紅葉も、比叡おろしの風に豪奢に散りまどう、十一月。早い日暮れの夕映えを一身にからめとったように、黄金色に銀杏が照り映えて、秋、霜月。 街路樹の銀杏で街全体が、名残りの秋の華やぎにかがやき立つような、中京区・河原町通り。そのすぐ脇、寺町通りのアーケード街を少し南に下った本能寺の境内にも、注連縄で飾られた銀杏の老木が、金色の葉を揺らせています。 この銀杏は、「火伏せのイチョウ」と呼ばれ、天明八年(1788年)の大火によって市中が火の粉につつまれ、猛火に追われた人々が境内に身をひそめていた折、突如、勢いよく水が噴出し、木の回りに集まった人々を救ったと伝えられています。
今も境内の東南の隅、河原町通りに通じる裏口の傍らにあって、幹回り約五メートル、高さ約三十メートルの古木がビルの間にはさまるようにたたずむ姿は、時勢の流れとはいえ少し窮屈そう。水を滴らせた往時のように思い切り枝葉を張らせて、落日を黄金色の体躯に存分に浴びれば、もっと見事な風格を漂わせてくれるのでしょう。 中国南部の原産で渡来も古いこの銀杏、外皮のコルク層が発達して災害や旱魃にもよく耐え保水力があり、火災などで周囲が高温になると水分が噴出すように蒸発することから、この本能寺以外にも「火伏せ」や「水噴き」の説話が今も幾つか語り継がれています。 本能寺はあの「本能寺の変」で名高い法華宗の大本山で、銀杏の北側には織田信長・信忠父子の供養塔がお祀りされています。応永二十二年(1415年)に日降聖人により建立されましたが、本能寺の変をはじめとする五度の焼失と七度の再建を繰り返し、現在の堂宇は昭和三年(1928年)の造営となっています。また再興の度、洛中を転々とし、豊臣秀吉の都市計画によって現在の場所に定められたと「京都古町記録」には記されています。 大寶殿宝物館では今秋、十二月一日まで「信長と戦国時代展」が催されており、本能寺の変の前夜、予兆のように突然鳴きはじめたと伝えられる唐銅香炉「三足の蛙」などゆかりの品々が展示され、私たちを一時、戦国の時代へいざなってくれます。 この特別展の終わる頃には、火伏せの銀杏もすっかり葉を落として、散り透いた箒のような枝や永い時をしたためて節くれだった幹を、冷え込む初冬の空に浮かび上がらせてくれることでしょう。
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