大石内蔵助は本当に一力に行っていたのですか?
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行ったことがあるかも知れませんが、一番のひいきではなかったようです。

大石内蔵助が京都に逗留していた間、遊びほうけていたこと自体は本当らしいのですが、史実をしっかりと検証した場合、彼が足繁く通っていたのは一力ではなく、笹屋というお茶屋らしいです。
笹屋は同じ京都でも伏見にありました。伏見というと寺田屋のあたりを思い浮かべる方もおられると思いますが、笹屋があったのは撞木町というところ。現在では石碑のみが当時の存在を示しています。

なぜ笹屋が一力茶屋になったかというと、この赤穂浪士の討ち入りを基にした歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」にて、笹屋に当たる場所として登場するのがここ一力茶屋で、この演目があまりにも名声を博したがゆえに事実であるはずの笹屋が隅に追いやられてしまったと考えられます。
討ち入りを扱った歌舞伎自体は翌年早々に上演され、幕府の手によって上演差し止めになったりしています。その後もこの事件を扱った歌舞伎や浄瑠璃はたびたび上演されており、その集大成として現代まで残ったものの1つが、事件後47年たって上演された「仮名手本忠臣蔵」だということになります。
「仮名手本忠臣蔵」では、幕府の追及を避けるため、登場人物の名前も場所の名前も極力変えることになりました。当然笹屋も名前を変えて出すことになりましたが、このとき、執筆者が懇意にしていたお茶屋の名前を使った、とかというのが案外真相のような気がします。もしかすると、つけをチャラにする代わりに名前を出せということになったのかもしれませんが…