なぜ四条河原町近辺に繁華街ができたのですか?
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元々鴨川の河原は、見せ物小屋や芝居小屋など庶民の遊興のための場所だったのです。

1467年に起こった応仁の乱によって、京都の町はそのほとんどが焼け野原と化してしまいます。
そんな京都を復興したのは、そこに住む住人でした。中でも「町衆」と呼ばれる人たちは、応仁の乱以降中断されていた祇園祭を自分たちの手によって復活させます。1533年には、室町幕府より「神事執り行うべからず」という政令が定められたにもかかわらず、それをはねのけて実行したとあります。彼らには、自分たちこそが京都を復興させているのだという自負があったのでしょう。

住人の手によって復興されつつあった京都に、本格的に活気を取り戻したのは、豊臣秀吉です。

すでに関白であった豊臣秀吉は、1590年に京都の本格的改造に乗り出します。都の周辺にお土居を築き、以前は正方形に近かった町の区画を縦長の長方形にすることで、土地を有効に活用できるようにしました。
また、本能寺をはじめとする洛中の寺社を当時市内中心部の東端である「東・京極通り」に移し、周辺にお参りの人たち向けの宿や遊郭等の遊興施設を造りました。これが現在の寺町通りです。ここに収まりきらない人々はさらに周囲へと広がり、鴨川の河原は庶民のための遊興の場となりました。

寺町通りは江戸時代半ばに大火を出し、なんとか復興したものの、明治時代になり寺領が召し上げられ、規模の縮小を余儀なくされます。かたや庶民によって支え続けられた河原町は、その後町並みは変われども変わらぬ人の賑わいが、京都一の繁華街であることを証明しています。