四月~井手・玉水と山吹 |
作者 たきねきょうこ | |||||||
あまりにせわしない季節の衣替えに、花々も一気呵成に咲き急いでいく様子。 ここ、京都府綴喜郡(つづきぐん)井手町を流れる玉川(たまがわ)周辺は、天平の昔、橘 諸兄(たちばなのもろえ)が壮大な別荘を構え、庭を埋めつくすばかりの山吹を咲き誇らせ「井手の玉水」と数々の和歌にも詠み込まれ、賞玩されたところ。 橘 諸兄(たちばなのもろえ)は、聖武天皇の義兄であり、また光明皇后の異母兄に当たる人物で、天平十五年から十四年間にわたって左大臣をつとめ、この井手からも程近い上流の恭仁京(くにきょう)の遷都や国分寺の造営、大仏の鋳造など主だった国政に政治的手腕をふるい、奈良時代にその権勢を誇りました。 諸兄の没後、急速に衰えていった橘氏とともに、井手もまた荒れるにまかせていきますが、昭和二十八年、この一帯を襲った南山城水害によって、天井川である玉川はより一層の大きな被害を強いられてしまいます。しかし水害後、町民の方々のご努力と行政の復旧政策によって、護岸が急速に修復されていき、今では川沿いの遊歩道や案内板も整えられ、また、両岸に植樹された二千五百株の山吹が彩りを添えて、花時の見事さは、奈良時代のはなやかさを取り戻したかのよう。 バラ科の落葉低木である山吹は、山間の谷川沿いや山野に自生し、五片の花びらを風に揺らす一重咲きの花が人々に好まれ、「万葉集」にも十七首の歌に詠み込まれて、その可憐な風情を讃えられています。また古来より黄色が「忌」(キ)色に通じると考えた私たちの祖先は、この色を死後の世界につながるおごそかな色として畏敬の念を抱き、あの世を「黄泉(よみ)」と呼び、その入り口には黄色の象徴として山吹の花が咲きそよいでいると考えました。愛しい十市皇女(とうちのみこ)が亡くなった折、高市皇子(たけちのみこ)が詠んだ追慕に溢れた歌にも、泉のかたわらに咲きそよぐ山吹の花がうたいこまれています。 「山吹」の名の由来は、微風にも揺れうごく枝の風情を称した「山振(やまふり)」から変じたのだとも、山野を黄金色に染め変えていくことから「山春黄(ヤマハルキ)」が約されたのだともいわれていますが、年月とともに栽培・改良がすすみ、今では華やかな八重咲きの他に、花びらの細く重なる「キクヤマブキ」や、葉に白い斑の入った「フイリヤマブキ」なども作られて、お茶花などに珍重されているのだとか。 山吹に彩られ、美しく整備された玉川の景観は、町民の方々だけでなく、花と史跡を楽しみながら散策していかれる観光の方々にも、憩いの散歩道となってくれています。
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